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エンジニアがお金について本気出して考えてみた

株式投資や節約などについて書きます

「どうして解散するんですか?」を本当に子供が作ったかどうかはどうでもいい

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「キッチュなもの」という考えは秘密に包まれていて、ミラン・クンデラはその考えで、多くの読者を困惑させた。

こうしてブログで「キッチュなもの」について語るにあたって、どう定義を示せばいいだろうか?集英社文庫版の「存在の耐えられない軽さ」では「俗悪なものキッチュ」という表現が使われている。だが、それは定義ではない。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

例えば、子供は天使だ、という考え方。これはキッチュの典型的な例の一つだ。子供にも悩める心があり、悪もあるのだが、キッチュなものの世界では子供の純粋無垢な面だけが取り上げられる。それは幸福と正義のシンボルなのだ。

障害者についても同じことが言えるかもしれない。障害者にも当然ながら個性があり、性格の悪い障害者や悪に染まって犯罪に走る障害者もいる。それは人間だから当たり前のことだ。

差別を行わない、というのは障害者についても同じようにそうした差異を認めることに他ならないのだが、キッチュなものの世界では、障害者はみな無垢な天使である。障害者が努力して何かを成し遂げる、というストーリーの番組では何の疑問も持たずにみな一様に感動しなければならない。それが俗悪なものキッチュの掟だ。

全体主義的な俗悪なものキッチュの帝国では答えはあらかじめ与えられており、いかなる質問も取り除かれている。そのことから、絶対的に俗悪なものキッチュの本当の敵は、質問をする人間である。質問とはその後ろに何がかくされているのかのぞくことができるようにと、描かれた舞台装飾のカーテンを切り裂くナイフのようなものである。

そう、疑ってはいけないのだ。仮に文章と語彙が不自然でも、子供が作ったものにしてはあまりに洗練されすぎていても。それは「子供が作ったことになっている」のだから。

年端もいかない子供が今の政治のあり方に疑問をもち、友達と一緒にサイトを立ち上げる。一から勉強して。なんて素晴らしいんだろうか。大人同士の連帯を呼び起こすこの感動は、絶望的なまでに俗悪なものキッチュだ。

小学4年生が作ったサイト『どうして解散するんですか?』大炎上の末、決着(一応) – grape -「心」に響く動画メディア

この問題については、既に予想されていたことだが、「別に子供じゃなかったからってどうなんだ?言ってることは正しいんだからいいじゃないか」「本当に小学生が作ったかどうかはどうでもいい」という意見もあがっているようだ。

それなら僕も言わせてもらおう。本当に小学生が作ったかどうかはどうでもいい。仮に本当に小学生が作ったものだとしても、自分の政治的な主張を押し通すために俗悪なものキッチュを存分に利用し、反論がしづらい子どもという存在を盾にとってプロパガンダを行う。そんな行為は僕は大嫌いだ。反吐が出そうなくらいに。

僕は正義についてではなく、自分の嫌悪感について書いている。

おわりに

「主張そのもの(目的)は正しいのだから、子供が作ったものと偽ったこと(手段)が何であろうと問題ない」みたいなことを言う人間には、僕は近寄らないことにしている。

目的のためなら手段を選ばない、何だってする、何をしてもいい、そんな風に考えている人間は潜在的とは言わないまでも精神的テロリストだと思うからである。